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「ゲド戦記V アースシーの風」 [reading]

 なんだろう。このとりとめのない話は。IVを読んだときにも思ったことだけど、改めて、『なぜこの続編を?』と思わずにはいられない話だった。どうしたかったんだろう。何を描きたかったんだろう。自分の晩年を思ってあの世を想像せずにはいられなかったのか。それにしても世界が混沌としすぎている。IIIで和平を取り戻したとしていたくせになんだかんだと自分で後からわざとらしいほころびを作り上げて続編を書いているように見える。その姿はル=グウィン自身がこの物語に未練があるかのようだ。

 これはIVでも顕著だったことなんだけど、問題が当事者の間でばっかりで納得されてて、読み手には全然具体的に説明してくれないんだよね。で、真意とは言わないまでも言わんとしていることが全く伝わってこないので、物語に置いていかれた感がすごく強い。『え、え、どういうこと?』とか思ってるうちに話はどんどん進んでしまう。なんか当事者同士で分ったようなこと言ってるけど何のこと?みたいな場面が何度も出てきた。そういうのはほぼ作者の独り言に等しい。どうしてゲドの続編をこんなに経ってから書こうと思ったんだろう。謎だ…。

 振り返ってみればこのゲドシリーズはいつも後出しジャンケンみたいなずるいドラマになっていた。IIでエルファーランの腕輪を取り戻せばまた世界を一つに出来るとしていたのが、IIIでは、いや世界を統べる王がいないと秩序は取り戻せないとアレンを出してくる。そしてこのVではその王を置いてさえ結局竜と人とのバランスが取れていないと、世界をみんなで「まったきもの」としようという壮大なテーマを持ち出してくる。きりがないよ。どれだけやっても満足しない。そういうことを言いたかったのかな。世界をよりより場所にするためには課題は尽きないってことを。「世界は今ようやくまったき物となった」って、そんなことずっと前から言い続けててシリーズの最後でこの混沌とした様はかなり印象が悪かった。
 私がまず思ったのは、too many men in the field。プレーヤーが多すぎる。ゲドにいまだかつてこんなに多くのキャラが登場してそれがみんないっぺんに動いたことなんてない。大体大筋でシンプルな話だったし。いろんなとこからいろんな人がそれぞれに自分の問題を抱えて出てきてなんか国連を髣髴とさせた。みんなが自分の主張を繰り広げるんで、その現場が収拾付かないことになっている様子すらも。これだけ利害の一致しない連中がアレンの一言で纏まるなんてちょっと眉唾だなとも思う。そして肝心のゲドは完全な外野だった。もうゲドなんていてもいなくても同じだった。それでもゲドの出てくる場面が一番安心して読めるのはやはり作者の思い入れがあるからだろうか。まったくこれのどこがゲド「戦記」なんだか。

 今回のキャラクターで一番イライラさせられたのはセセラクだった。排他的なところで育ったんだからこんなもんかと思わなくもないが、いかんせん頭悪そう。アレンがこれと結婚するならがっかりだなと思った。それに最初はアレンの治める国を指して、「こんな野蛮なところ!」みたいに言って自分から打ち解けるようなそぶりはおくびにも出さなかったのに、終盤でアレンが倒れるに到ってはどういう風の吹き回しか、「私の大切な人が!」とか言って泣き伏す始末。ええっ、あなたたちはそう言う関係だったけ?そうでなくても、傍目から見て、「誰であれ、あんな包みをくれたら、私だったら開けますがね。」と言われるようなこの人の存在にも嫌気が差した。早い話、この王女って慰み者じゃん。
 そんな訳で、私としてはアレンが個人的にも外交的な立場からもセセラクを受け入れられない気持ちはよく理解できたんだけど、テナーはそれを単純に親心からたしなめているように見えて、逆にそれが女は政治に疎いみたいな印象を受けた。それでいいのかル=グウィン。もう一つアレンでがっかりしたのは、安っぽいプレイボーイに成り下がっていたことだった。国王という立場から相手の申し出を断るのは品位に関わるとでも思っているらしくて、相手のいいところだけ掠め取っていくみたいなお付き合いの仕方には顔をしかめた。そのほうが失礼だっつーの。その気がないなら思わせぶりなことすんな。大体、テナーみたいのがいいって言うマザコンが、世間知らずなお姫様を嫁にするなんてうまく行くわけがないと思うのは私だけか。

 この物語の伝えたかったことは結局なんだったんだろう。結局何が解決したんだろう。死んだ人ってどこにいったの?竜の国に行ったの?人間に生まれついた竜が竜の国に戻るのはありなの?それでいいんだっけ?
 なんかまたその場しのぎな解決を見ただけじゃんじゃなかろうか。アレンは疲弊することだろう。自分の力で解決できない問題の多いことに。自分の立場と実際の解決能力との間に矛盾を感じるだろうね。結局起きることに翻弄されまくってやらなきゃいけないことを片っ端から処理しているだけだ。そこに自分はあるのかアレン。才能が人生を選ぶ。アレンはまさにそんな生き方を余儀なくされている人だ。アレンの本音はロークに移動する船上でのトスラとの会話に垣間見える。彼はこれまでになく卑屈になって現実から逃げ腰だ。分るけど。その方がリアリティあるけど。

 それにしても、この話に出てくるどのキャラにも共感できなかったなぁ。女の人たちは誰もみんな我が強くって頭が固くて話にならない。アイリアンなんかは自分が竜だってことにプライドが高すぎて、どんな人とでもぶつかり合う。テナーが若くなった感じだ。その一方でテナーはすっかり萎縮して見える。それでも覚悟していたことをやり遂げてゲドと二人っきりになれた様子はそれまでよりもよっぽどしっくりしてるみたいだった。この二人はもういいおじいさん、おばあさんなのにちっとも関係が歳をとらないのが傍目から見てうらやましいなと思った。
 IVでセックスという愛情表現を覚えたゲドは、愛ってものに対して、もしくは世の中の全体のありように対しての見方が変わってきてる。そもそもハンノキがゲドのところに来て相談したときは、ハンノキが死んだ妻に呼び寄せられるのは愛がどうとかこうとかって言ってたのに、終わってみればそんなのこれのどの辺に関係あるの?って感じだった。ゲドの意見は大筋で魔法使いたちが女性を知らないってのは世界を半分しか知らないみたいなもんだってことなんじゃないかと思うんだけど、アズバーの方が正しいって言うのはそう言うことだよねえ?でも、その辺の課題は物語の終焉に際しては完全に棚上げになっていた。ル=グウィンは愛をなんだって言いたいの?

 「アースシーの風」はゲド戦記中最もちまちました話だった。ストーリーに巻き込まれる世界は広いのに、現実に処理していかなければならないことに囚われててて、話が遅々として進まない。ファンタジーらしい大胆さとかがかけらもない。むしろこれは現実世界を語っているに近い。実生活上の瑣末でつまらない、だけど実際に問題ではあることを連ねているだけというか。だから収拾がつかなくなっているというか。何も解決せずに結局それをずるずる引きずっていくだけの未来にちょっとうんざりするような、あきらめに似た読後感が残った。
 だからこそ、ハンノキが自分にかされた重荷から開放されて奥さんとあの世で再び一緒になった姿に、そして現実世界では彼の悲しみや重荷を肩代わりしたテナーの姿がすんなりと胸に響いたんだと思う。死んだ人の背負っていたものは、死んで一緒に解消されるんじゃなく、後に残った人たちにちゃっかり置いて行かれるという真実。ただテナーは強いから、その荷を肩代わりすることに不安は覚えなかったけど。

 それにしてもこのとりとめのなさは一体どうしたもんか。無理矢理シリーズを再開しといて、それまでの世界観を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、そして最後にはなにも決着が付かないなんていいんだろうか。ひねった首が元に戻らない。続編出るのかな。


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「図書館戦争」 [reading]

 最悪だった。本屋で見たときに帯に「『本の雑誌』2006年1位」とか書いてあって、ゲドのI、IIと一緒に勧められて買ってもらったんだけど、私はそのタイトルからして引くものがあった。正直嫌な予感がした。それでも買っちゃったのは、買ってくれるという人の強引に勧めてくる姿勢に自身の強い興味が現れていたので断れなかったから。しかしてその結果はやっぱり最悪だった…。なんじゃこりゃ…。ライトノベルじゃん…。「本の雑誌」って同人誌かなんか?…。

 と思ってググってみたら、うーん、そんなにおかしな雑誌ではなさそう。だたざっと読んだ感じでもやっぱ好き者が書いてる印象はぬぐえないな。「本の雑誌」って雑誌がほんとにあって、かなり長いみたい。少なくとも23年以上も続いてるみたいだ。ふーん。roだってまだ20年経たないよねきっと。すごいなぁ。なくなったりしないんだ。編集者もずっと一緒みたいだし。女の人なのかな?途中で名前が変わってる。意外だったのは内容もなんか本ばかりのことじゃないみたいで、これはこの本以上に一回買って読んでみる価値あるかもなと思った。とどのつまりこの本はその為に出会ったのかもしれない。それにしてもこの本を読まなくてもこれにたどり着きたかった…。
 「本の雑誌」はHPもあって、本屋さんの紹介があったんだけどそれが面白いなと思った。フランチャイズの大型店じゃなくて個人店を紹介してるみたい。本オタクに新たな餌食を紹介するだけじゃなく、お店の人の勉強にもなるのねと思って感心した。ふーん。

 話を本の感想に戻すと、終始作者のノリ突っ込みの勢いで書かれているすげー読みにくい構文だった。一番まいったのはどうにもこうにも一文が長いことだった。特に台詞。句点を全く省いて一気にまくし立てる姿はすごく頭が悪く見える。実際そういう設定なのかもしれないけど。美文って形容からは程遠い作品だった。
 アンド、キャラ設定があきれるほど分り安すぎる。安っぽいテレビドラマ見せられてるみたいだ。なんの意外性も新鮮味もない。王子が誰だかわざわざ書いて教えてくれなくても分りますから。この分り安すぎるキャラ設定は安易に過ぎると言ってもいいかもしれない。
 重火器帯びて曲がりなりにも人の命を預かる立場にいながら恐ろしいほど馴れ合った職場で、嫌悪すら覚える。隊と名の付く組織の癖して上下の規律とかが皆無だ。なんだこのぬるい世界は。あまりにも主人公に都合のよすぎる設定にはっきり言って嫌気が差した。
 そしてこの世界観。リアリズムみたいなものがすっぽり抜け落ちている。ライトノベルって大抵こんなもんか?世界観が閉鎖的で狭い。作者が意図してる世界観が物語に出てくる当事者以外に当てはまらない。世界は図書館の外にもあって、そことどう折り合いをつけてこの物語が存在するのか、その辺が全く実感持てなくて。結局出てくる人たちだけの間で繰り広げられるファンタジーで終わってる。だからなんだ、幼稚なんだよなぁ。この話って近未来が想定されていたと思うんだけど、図書館をめぐって人命を晒すことが近々の日本にそんなに現実味があるか?局所的にこんなに暴力的になるわけがない。こんなことで人がバタバタ死ぬなんて、日本全体どうなっちゃってんの?と思うでしょ?その辺ノー・ケアだから。個人的な意見としては、ここまで官僚システムに腐蝕した国家が、ある日突然ファシズムに走るにしても今更こんなことを暴力で押さえつけたりしないと思うのは私だけか。どっかの途上国じゃあるまいし。もっと頭使って労働力減らして「情報操作」とかってのをするんじゃないの?こんなに大げさに立ち回ったら真実がどっちにあるか認めてるようなもんじゃんか。これじゃ子供のケンカだよ。

 思うに世界観の狭い広いはあんまり作者の意図に関わらないと思う。書いてれば自然と出てきちゃうもんなんじゃないのかな。例えばハルキの話はよく自閉的って言われて、私も狭い範囲ではそう思う。けど、広い範囲では、結局はその自閉的な「僕」個人の世界が現実に「僕」を取り巻く世界とどう折り合っていくのかが物語のありような気がする。つまり「僕」に起こる全く個人的なドラマが、水に打った波紋のようにどう世界に浸透していくかって様子が結局は全体として描かれているんじゃないかと。そして腕のいい作家って言うのは自然とそういうことが出来てる人の事なんじゃないかと思う。だって、多分それを意図してやってたらもっとその辺が技巧的に浮かび上がってきちゃって隠せないと思うんだよね。そうなったらきっとわざとらしさが気になると思うから。
 エーコは別だね。あればずるいね。だって実際に起きた事を下地に書いてるわけだから、どんなに突拍子のないことを書いても現実味が薄れる訳がない。しかし、彼の作品を読むと「現実は小説よりも奇なり」って言うのがよく分かる。そんなテキストを探し出してくる彼の執念っていうか情熱がすごいと思うよ。

 Amazonの投稿を見る限りみんなこの話を気に入っているみたいなのが更に意外だった。否定しているコメントは見当たらない。私のセンスはそんなに外れているのか。続編もあるみたいだけどもう勘弁。なんか内輪ネタで盛り上げる内容になってるみたいだし。しかもこの先まだこのネタで続けるみたいだし。

 まあとにかく「本の雑誌」を読んでみようという気にだけはなったので、全く何も得られなかったという訳ではなかったのが不幸中の幸いみたいな出会いだった。


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「ゲド戦記IV 帰還」 [reading]

 かなり衝撃的だった。読み終わっての第一印象は「はあ????」って感じだった。頭の中にいっぱい「?」マークが沸いてきた。『え、これはなに?これはゲド戦記???』とかなり動揺した。それくらいゲド戦記ではなかった。それまでのゲド戦記からは逸脱した、よく言えば独立した物語、アナザーストーリーだった。
 本の後書きだったかなんかで、そもそもこの3巻目と4巻目の間にはかなり時間を置いてのことだったので、続編が出たこと自体にみんなが驚いたと読んだ。Wikipediaによると、3巻目から4巻目が発表されるまでには実に28年の隔たりがあったことになる。
 なぜ世間のそういう認識を覆してまで作者は、このテーマで、しかも「ゲド戦記」の続編を出そうと思ったんだろう。きっともうその辺は、本人か研究者でなければ分らないんだろうな。

 世間の認識を裏切って発表された4作目のテーマは、あからさまに「ジェンダー」だった。な、なぜこのテーマをこの作品で?この話って書かれたのいつ?と思って調べてみるに、原作が発表されたのは90年、3巻目が発表されたのはなんと私が生まれる前だった……。ええーーーーーっ、そうなんだ……。構成がおかしいから相当古そうだとは思っていたけれど、それでも……。なぜファンタジー作品にこのテーマを持ち込んだ?なんか読ん出る最中、体のいいハーレークインを読まされたような気持ちの悪さを覚えたし。中年、よりももっと歳のいった男女のロマンス。その点で言えばまだ辛くもファンタジーか。

 正直、この話はもうファンタジーなんかじゃないっていうのが読み終わった直後の感想だった。生々しくて、読んでる間ずっと眉をひそめるような気持ちだった。こんなの子供の読み物なんかじゃないよ。むしろ読ませていいのかという気がするくらい。だって、タブーがてんこ盛りだよ?幼児虐待にレイプ、貧困と差別。犯罪。読み終わったあとで一瞬、3作目までを読んだ子供たちが大きくなっていることを想定してのテーマだったのかなと思わなくもなかったんだけど、ジェンダーってテーマはどうしても偏ると思うし、テナーの一人称がますますそれを助長してる気がする。どう贔屓目に見ても、これは「ゲド」の世界観を借りて現代社会の問題を描いているだけだ。そして、どこにも救済はない。むしろ善の存在それ自身がファンタジーに貶められている。
 そして宮崎吾朗のごった煮「ゲド戦記」に出てくるテルーはこの4作目にならないと出てこない。どこまで脈略がないんだろうな、この作品は。しかも、まだ原作を読んでない当時ですらも思ったことだったけど、やっぱりこいつはこの不幸から生まれたヒロインを相当美化してキャラデザインしてた。それを確信すると余計不愉快に感じた。テルーは人間の残忍さの生きた証拠といわんばかりにその顔も身体も醜くされてしまっているのに、映画で表現されたのは焼けて赤くなった皮膚の色だけだった。何を恐れてこんな手抜きをしやがんだ。ヒロインだからあまり醜くは出来ないとしても、それこそそんな目くらまし原作に失礼ってもんだろう。そんな中途半端なことするくらいなら、いっそのことテルーの身体的な不具なんてなかったことにしてしまえばよかったのに。

 4作目の主人公もテナーだった。徹頭徹尾テナーだった。そして、終始テナーの目線を通して「ジェンダー」という偏ったテーマが紡がれていく。だけど、そこに決して誇張や嘘はないと思う。ここで起きるどんなエピソードも現実の諸悪として存在しているから。
 ただそれでも、読み終わって最初の衝撃のほとぼりが冷めると、私はこの地に足付いたテナーのたくましさというか、したたかさというか、生(性?)に対する本能的な素直さに好感を持つようになった。それもかなり意外なことだった。私はどんなに見方が主観的になっていようと、このテナーの人生が行間にぎっしり詰め込まれたような生臭い話に愛着を感じるようになった。
 ゲドに置いていかれた淋しさから、男ほしさにオジオンの元を飛び出したというテナーの告白はあまりにも生々しい。愛とか恋とか言う以前に、ただ自分の男を持って、その子供を作って暮らすことが世間の認める当たり前ならばこそ、早く自分もその当たり前になりたいと必死になるテナーは、同じ女として非常に生々しく映った。私の友達の一人が全くこれに重なったし、同じ理由のために結婚を望む女の子たちが実際にどれだけいることか。それを思うと息の詰まる感じがした。女に生まれついた時点で既に私たちは人生の枠組みをその社会にあらかじめ決められてしまっているわけだ。

 そんな、「喰らわれし大巫女」や「腕輪のテナー」というセレブな生き方を拒み、代わりに選んだ魔法使いの生活からも結局は逃げ出して、ただの「女」に走ったテナーに、新たな人生が降りかかる。それがテルーであり、再会したゲドだった。新たな人生を生きるテナーはよっぽどテナーらしかった。この人はいつだって怒ってて、怖いもの知らずだった。死に損ないのテルーを必死になって守るテナーの姿はもうがむしゃらで、母親ってこういうことかとよく理解できた。
 突然戻ってきた放蕩息子を農園に置いて出て行くときの様子は、「OUT」で主人公が、反抗期の息子を引きこもりになった父親と共に捨てて出ていいく姿にそっくりで思わずにやりとした。桐野夏生はもちろんこれを読んでいたに違いない。だって、あんまりそっくりだよ。母親は厳しく、そしてその愛情は海より深い。ヒバナの甲斐性のなさにテナーが子育てを失敗したとぼやく姿とか、また、出て行こうとする母親にヒバナが追いすがるところなんて本当に「OUT」とダブった。

 それに引き換えゲド。私の大好きなゲド。が、あろうことか腑抜けになってしまっていることに愕然とした。アレンと旅をしていた頃は、自分が力の全てをなくすと分っていても、あれほどその後に来るフツーのおじさんとしての人生を楽しみにしていたくせに、実際「無力」というものが降りかかってみると、その現実を受け入れる力すら持ち合わせていないみたいだった。で、自分の不甲斐なさをテナーにやつ当たりしてみたりする。かっこ悪い……、かっこ悪すぎる……。テナーはあなたが大魔法使いだから好きになったわけじゃあるまいし……。ということがまるで分っていない。魔法使いって意外とバカ……。と思ってあきれてしまった。
 それを上回って私を呆然とさせたのは、そんなゲドを突然ベッドに呼んだテナーだった。……え、なんでそうなるの?という脈絡だった。え、それってそういうことなの?と、読んでる私が戸惑っているのに、ゲドもゲドで、もごもご言いながらもテナーの誘いを当然の流れのように受け入れる。は?どっからそういうことになったの?思わず後戻りしてその読み落とした行間を探そうとしてみたりしたが、ついに、この時点でのこの自体が持ち上がるべき瞬間を見極められなかった。私にはどこまで行っても唐突に思えてしかたなかったんだけど、当人たちは今が一番息の合った時みたいな感じで惹かれあって曰く、
 「そこでテナーはもっとも知恵のある男でさえゲドに教えることの出来なかった神秘をゲドに教えた。」
 ええーーーーーーーーーーーーーっ、そんなあーーーーーーーーーーっ。
 しかも、暖炉の前だ。どこのスケベ映画やねん。ご丁寧に神秘の儀式が終わった後のピロートークまで披露してくれる。なんのサービス?長年の片思いがやっと報われて満足しきったテナーに、
 「さあ、あなたはいよいよ一人前の男。」 とからかわれると、ゲドはしおらしく
 「もう、そのへんにしてくれよ。」 と50男とは思えない恥じらいを見せる。
 ガーン……ドン引き……。誰がこんな光景を「ゲド戦記」に期待しただろう……。喰らわれし者にゲドが喰らわれた瞬間……。そしてまんざらでもない……。うげーーーーっ。じゃあさ、聞くけどさ、ゲドが魔法使いのままだったら二人のロマンスはありえなかったってこと?そうなの?魔法が使えたままならゲドはテナーと一緒になることは考えなかったってこと?それは淋しくない?まあ、才能が人生を決めることもあるからね、それをゲドが選ぶなら仕方のないことだけど。でも……。

 この巻のゲドはかなりかっこ悪い。まるでいいとこなしだ。力を失ってみれば、一時の大賢人も普通の人以下だった。現実と向き合えなくて逃げてばかり。なんとか元気付けたいと思うテナーの心遣いにも背を向けて心を閉ざす姿は、むかし影に怯えてロークで隠者みたいにこそこそ生活していたときの彼を髣髴とさせた。ともすればテナーやテルーに当たってしまう。男というより、まず人として情けなかった。
 ひどいなと思ったのは、テナーがテルーを引き取ったのは残酷だったんじゃないかとゲドが責めたとき。これにはテナーも苦しめられた。これは、私がジョディーの看病疲れをしているときに、思わず知った人に苦しいのを打ち明けたら、「早く楽にしてあげたら?」と言われたことにかぶった。自分の良かれと思ってしていることが必ずしも相手の幸せであるとは限らないと言われて私はショックだった。そう言われて私は先生に安楽死の可能性も相談したけど、半ばそれは止められる形で選択肢から外された。先生に、安楽死だって決して犬にとって楽なわけではないと言われて、むしろ安心したような気がする。そして、テナーも私も心無い言葉を投げつけられたけど、結局放り出すようなことはしなかった。命のある限り、自分のベストを尽すと。もちろんそれは自分の想像していた以上に自分を、関わる全ての人を消耗させる悪夢だったけど、後悔はより少ない。自分に出来ることを全てしたと思うから。

 テーマがテーマであるだけに、最初っから最後まで「女」であることが問題であるみたいだった。テナーは女であることで自分の存在が軽視されることに不愉快を隠さなかった。巫女であったプライドもその一助となっているのは確かで、どこへ行ってもどこの男とも彼女は衝突した。それを厭わなかった。夫を失って枷が外れたせいなのか、人との和を全く重視しない人になっていたので、ある意味どこの人間とも摩擦を起こした。こういうテーマを扱ってみて初めて分ったけど、「ゲド戦記」の世界は「女だからダメ」ということばかりで成り立っている。女は魔法使いになれないというのも4巻目を読むまでなかった設定だ。まあ、中世をモデルにしたような世界観だからジェンダーの倫理観とかも当時のそれに近いんだろうけど、そんなわけで、テナーは概念というか、社会通念というものと悉く衝突する形になった。えらい人に頭を下げなかったり、村八分の人と親しくしたりとか。とにかく自分が正しいと思ったら、それを絶対に曲げない人だった。その頑固さは逆に頭が悪いくらいに映ったけれど、なんだかそのうち自分のことを言われているみたいな気がしてきて、それがちょっとおかしかった。私とテナーは少し似てるのかもしれない。
 とにかくいろんな分りやすい差別がこの世界にはある。身分や、職業や、中でも性はそれ以前の問題だった。同じまじない師でも女ならもっと卑しい仕事とか、女が男にたてつくなとか、そんな感じだった。その中でも私が最高に不愉快だったのが、
 「後家の男欲しさは昔からのことではないか。」
 って言う概念。そんな……、言いがかりにもほどがある……。どう考えてもこれって男目線の差別だよね。自分が旦那のいなくなった女に迫るための口実で、女自身は死んだ夫によってではなく、この偏った俗説に貞操を縛られる。こんなナンセンスが公然と真実みたいに語り継がれるなんてその社会自体のレベルが問われるだろ。そもそも公平とか言う概念がないかもしれない。その手の概念って魔法使いが「この世の均衡」とか言う以外に出てこないもん。やっぱり教育って重要なんだなぁ。

 宮崎吾朗の「ゲド戦記」のクライマックスはこの4巻から来ていた。呪いを掛けられていたテナーは向こうの汚い策略にはまって捕らわれてしまう。それを助けようとしたフツーの人ゲドも一緒になって捕まる。敵は、城壁の上にゲドを立たせて、それをテルーに突き落とさせるという、極悪非道とはまさにこのことというようなやり方でゲドを殺そうとする。でも一番恐ろしかったのは、アスペンの女に対する偏見と憎しみだ。テナーに術をかけて犬みたいにして引き回し、なんの遠まわしな表現も使わずに、そのままずばり「ビッチ」と呼ばわって地面をなめさせるくだりははっきり言っておぞましい。そこまでの悪意を描く必要があったのかとさえ思った。
 そこへ奇跡のようにカレシンが舞い降りて、二人を救う。実際にそこへカレシンを呼んだのはテルーだったわけだけど、「ゲド戦記」では時々こういう都合のいい解決方法がとられる。「たまたまそうだったから助かった」みたいな。ゲドが昔、まじない師として西の島に派遣されて、そこから竜を退治しに行ったときは、それまでに聞き知った話から予想して、たまたま竜の名を言い当てたと、退治した後で告白する。このエンディングもこのときになっていきなりテルーがカレシンの娘だったということを知らされる。まあ今回はその布石がなかったわけではないけれど、どうしてそれをテルーが知り得たんだっつーの。

 一見ハッピーエンディングのようでいて、実のところ何も解決していないこのお話の唯一の救いは、テルーが自分の汚れ(と人は呼ぶだろう)に気付いていないことだった。恐ろしいことをされたという記憶はあっても、「汚された」という概念はないみたいだった。それが救いだった。そして忠実に再現することはどんな作家もためらうだろう身体の少女は、それでもよき母と父に恵まれて健やかに育っていく。その様子がなんとも晴れがましかった。行方不明のシッピーを必死になって探す様子、自分を痛めつけた人間に再会して気分が悪くなってしまったことをあっけらかんとゲドに打ち明ける様子は、この醜い顔の少女の芯の強さ、心の健やかさを物語っていた。それがすがすがしかった。

 最後に、テナーのお気に入りになったコケばばを私も好きになった。その姿から人には嫌われているけれど知恵はある。こちらがその気になって心を開けばコケばばはよき相談相手だし、いろんなことを学ぶことの出来る教師ですらあった。この素直で小さな人のいいまじない婆が私はかわいらしかった。
 宮崎駿の作品には必ずイタコみたいな年取ったおばあさんが出てくるけど、ここから来てるのかもね。

ゲド戦記 4 帰還


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「ゲド戦記III さいはての島へ」 [reading]

 映画であのシーンを見たときからかなり確信に近い思いではいたんだけど、やっぱり親殺しのエピソードは宮崎吾朗のトラウマだったんだな。大体、製作仲間にもバレバレなそんな安っぽいプロットをなんの恥ずかしげもなく入れてしまうところがなるほど素人か。父親の作品を観てても、父親の仕事をそばで見てても何も学べなかったのか。やっぱりそれを汲み取るセンスがその子供にはなかったと言うことなんだろうなぁ。大体、父親と比べられるのが嫌だっつって異業種に逃げ込むくらいだから。その時点で既に比べられてるってことに気付けよ。そんなに恵まれた環境にあって、絵を描くことが好きなら尚の事、なぜそのチャンスを活かさなかった。挑戦しなかった。そんなのがアレンに自分を投影するなんて、そりゃ原作者にも嫌がられるよ。宮崎吾朗が映画にしたのはこの3巻目と聞いていたけれど、実際にはこれまでのエピソードを、主語を入れ替えたりと好き勝手にした上でのごた混ぜで誰のキャラも掘り下げられていないし、世界観の上っ面さえ伝えられていなかった。
 あの映画の出来を観て、自分の想像力の源泉をいいようにいたぶられた父親の心痛はいかばかりか。
 
 そんな映画を先に観ていたせいで、本を読む前のアレンに対する印象はよくなかった。良くなかったと言うか悪かった。だって無類のヘタレだよ?だけど、そんな先入観があっただけに本の中のアレンは一層まぶしく見えた。
 ル=グウィンの描いたアレンはすごくかわいい。アイドルってこういうことだなと思った。若い頃のゲドも愛らしかったけれど、アレンにはそれを上回る素直さとひたむきさがあった。田舎者だったゲドには自分の力に対するうぬぼれと虚栄があったけど、いいとこの出であるアレンにはそれは慎むべきものであることをその歳で既に知っている。慎み深さこそが品位であることを小さい頃から教え込まれているからだ。もちろん、それは彼の両親が良い人々で、彼の受けた教育が質のいいものであったからだと思うけど。歳若い王子が美しいってだけでも奇跡的なのに、そこに知恵と勇気と、あろうことか善意が備わってるなんてこの人自身が奇跡みたいなもんだ。
 私のお気に入りは嫉妬するアレン。ローバネリーで知り合った半狂人の男を船旅に同行させようとするゲドと、それをなんとかして思い止まらせようとするアレンが言い争いになって、ゲドがそんなら旅やめようか?みたいな極論を持ち出して完全に子供のケンカみたいになってくると、アレンは目に悔し涙を溜めて言う、
 「わたしは申し上げたではありませんか。お供して、どこまでもお仕えすると。約束は守ります」
 なんていじらしいの…。私はアレンがかわいくってしょうがなかった。その後もアレンは度々ゲドに対する恋心にも似た忠誠をゲドに示す。いや、その気持ちはもう完全に恋なんだけど。アレンはこの気まぐれな魔法使いに恋してて、恋してるゆえにゲドの行動に悩まされる。だって、好きじゃなかったらとっとと放り出しちゃえばいいんだもんね。
 ゲドに恋わずらいしてるみたいなアレンは本当に愛らしかった。

 アレンは王子としての育成の結果として、異様に正義と義務感が強いけれど、その権威に関しては全く気負ったところがなくて、驚くほど自分の気持ちに素直な子供だった。いやらしく言えば、大人に気に入られるコツを心得た子供だった。それは本人も否定していない。彼の周りには大人ばかりだったから考え方がませていて、誰かに師事することに慣れていた。けれど多分彼の本当の美徳は、その中にきちんと自分の純粋性を囲っていたことだろうと思う。つまり彼が少年であることこそがその力の源のように感じる。
 それはゲドについても言えることだった。なので、ゲドがロークの院長の座についていると知ったときはすごい驚いた。あのゲドが。学校の校長なんかの座に収まって生きてる。いかにも不似合いだし、不自然なことのように思えた。なので、ゲド自身が後で
 「いちばんつまらんのが、この大賢人というやつだ。」
 と言うのを聞いてどれほど安心したことか。
 だから、アレンの出現にゲドは大喜び。長たちの前でこそ体面を取り繕って一応の威厳を漂わせているけれど、内心は完全にウキウキしてる。子供みたいに。早く旅に出たくてしょうがないって感じが伝わってくる。この話でのゲドは壮年と言うからには40は越しているはずだけれど、それでいて素顔のゲドはすごく子供っぽい。アレンをあきれさせてしまうほどの子供っぽさだ。その幼年性がやはりこの人の力でもあるんだろうと思った。年をとらない。永遠の子。苦労をしていないからと言うわけでなく、むしろ人の経験し得ない視線を超えた経験を何度もしているのにだ。ゲドのゲドたるゆえんはその幼さにあると私は思った。
 そんなゲドの大人気なさが発揮されるのはアレンと二人で海に出ているとき。つまり人の目が届いていないとあきえるほど子供っぽくなる。まあそんだけアレンに対しては正直に向き合っていると言うことなのかもしれないけど。でも、どんなに仲のいい友達とか恋人だって言っても、長い間一緒に旅していたら一度もケンカせずに済むなんてことはないよね。それは経験上私もよく分かる。アレンとゲドも海上で二人っきりのときにその絆を試される。旅先で色々あって観るもの全てに不安を覚えるランの気持ちををもう少し分ってあげてもいいと思うんだけど、ゲドはアレンの不安に押されての質問攻めを子供っぽい癇癪ではねつけてしまう。その様子はほんとにびっくりするほど大人気ない。
 例えば、航海中に二人がケンカなんかすえると、最終的に歩み寄るのはアレンだ。ゲドがアレンの質問の多さにへそを曲げて黙り込んでしまうと、アレンは健気にもその場を和ませようとして、
 「歌をうたってはお邪魔でしょうか?」
 と進言すると、ゲドは
 「うむ、うまいか、へたかによるな。」
 と不機嫌そうに答える。オッサンどんだけ大人気ないんだよ。
 もう一つは、ゲドが自分の生まれ故郷をアレンに見せたときのこと。自分の生まれ育った森の美しさを語って聞かせた後でこう言う。
 「やれ、わしが、もしも、ゴントに戻れることになっても、そなたには、ついてこさせはしないからな。」
 そう言って悪戯っぽく笑った彼が一番好きだった。それを読んで結局、この人はやんちゃなまま、とうとう大人になることがないまま大人になってしまったんだなと思った。

 すがすがしかったのは、旅がクライマックスへ近づくのを目前に、ゲドが来るべきフツーのおじさんとしてのリタイア人生に目を輝かせる場面。ゲドはアレンに出会った瞬間からこの出会いが意味するもの、その運命とそれが自分たちを何処へ連れて行こうとしているかも全てその瞬間に理解する。
 ゲドは自分の果たすべき運命に酔っていたと言ってもいいかもしれない。自分が果たすべき試練と、その結果がもたらす栄光、そしてその向こうに待つ自分の知らない全く新しい生活に対する希望や期待というものがよく伝わってきた。そのために命を投げ出すことなどなんでもないみたいだった。それが必要ならそれをするまでと言った感じだった。

 ハルキがよく言うことに、
 「人が人生で自から選べることなんて殆どない」
 っていうのがあって、私はこれに抵抗を感じているんだけど、ゲドも同じようなことを言うんで、みんなそう思っているのかなと思った。ホート・タウンに向かう船の上でゲドがアレンに自分にとってどれほど航海の時間が貴重であるかを説いて曰く、

 「まだ若かった頃、わしは、ある人生とする人生のどちらかを選ばなければならなくなった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからかも自由にはなりえないし、その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。ひとつの行為がつぎの行為を生み、それが、また次を生む。そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。」

 これってひょっとして私とハルキの中道なんじゃないかと思った。結局、人生の岐路に立って何かを選んでも選ばなくてもその結果から自分が逃れることは出来ない。ただ、ハルキは選ばない人生の連続で、私は選ぶ人生の連続だったというだけで、そのどちらかが、何かからより自由であるなんてことはないんだ。
 「才能が人生を決めることもある」
 と「ナス」を書いた人も言っている。それをベストと思って何かを選ぶことと、圧倒されてしまって何も選べないことの間にはきっとそれほど明確な差はないんだと思う。

 それでも、既に世界の大賢人に上り詰めた男が、リタイアを目前に人生で最高の栄光を手にし、そして同時に全てを失うこの話のラストでは、ヒーローの輝きもフェイドアウトしてゆく。
 物語のラストには消えていったヒーローを偲んで2つのエピソードが挿入されている。私は前者の方が好きだった。ゲドが全てを失ってしまったことを思えば、それはありないと分っていながら、それでも前者であったらいいなと思った。ゲドのものを慈しむ姿がよく現れていると思ったから。ゲドを追ってセリダーから一人帰ってきた果て見丸に声をかけるゲドは、すごく、らしかった。

 2巻目で全くなりを潜めてしまっていただけに、今回は大分ゲド自身を楽しめた感じはするけど、でも、人生の郷愁の時期に差し掛かった姿はやはりさみしいとしか言いようがなかった。

ゲド戦記 3 さいはての島へ


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