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「抗夫」 [reading]

 ハルキが「カフカ」の中で「抗夫」に関する考察を繰り広げていたので、どんなものかと、漱石の総括として読んでみたんだけど、前にお父さんに言われて意味の分らなかった表現がこの話の中に出てきて豆鉄砲を食らった気持ちだった。
 「これより以上は横のものを竪にする気もなかった」
 そんなに古い時代の表現なのかと思ってびっくりしたのと同時に、さすがに全集を持っていただけはあるなと、お父さんの在りし日の文学青年振りを思って惚れ直した。本当に、本当に、あの夏目漱石全集を捨ててしまったのが悔やまれる。昔ながらの丁寧な紐閉じがされた、深い緑色をした布張りの装丁で、タイトルは型押しだったと記憶している。古ぼけた扉つきの本棚に収まった立派な本は、みんなお父さんのもので、お父さんには「三四郎を読め」と言われたけれど、ぱっと見難しそうで、まだ小学生だった私は『大人になったら…』と思っていた。
 あれをお父さんはいつ買ったのか知らないけど、「500円」と書いてあった。多分、今の5000円はくだらないだろうな。なぜ捨てたかな…。ひょっとしたらあれを買ったのはおじいちゃんかも知れなかった。

 出だしはよかった。リズムがあって。「自分」はなんの釈明もなく松原を歩いている。とにかく「自分」が歩き進めないうちは物語も進まなくて、面白い出だしだったと思う。それが江戸っ子気質なのかは分らないけど、会話や表現のレトロな言い回しとかも歯切れがよくて小気味よかった。
 「こう松ばかりじゃ所詮敵わない。」
 なんかおじいちゃんとの会話を思い出す。この表現がどういう感情の賜物なのか正確には理解できないけど、でもなんとなくはわかる。この仰々しい表現がおかしい。
 ハルキを思わせる表現とかにもあったりして、ああやっぱり漱石が好きなんだなと改めて思った。

 私がこの話でもっとも惹かれたのは、この話が実話に基づいて書かれているという点だった。それも、ある日突然この物語の主人公の当人が漱石の家の戸を叩いて家に上がりこんで私の人生を小説にしてくださいと一方的に押しかけてきたと言うところだった。このエピソードは「カフカ」の中では触れられていない。私が書店で実際に本を手にとって見て初めて知った。ある日突然見知らぬ人が家にやってきて自分の人生を書いてくれなんて押しかけてくるなんて、それ自体がドラマだなと思ってとても興味が湧いた。

 それで、一体どんなドラマがあったらいいとこの坊ちゃんが何の頼りもなしに家出なんかしてしかも炭鉱なんかで働くことになるのかなと思っていたら、理由はあきれてしまうほどしょうもないことだった。つまりは女性に誠実でいられない性分の人のようだった。っていうか多分この人は自分の他のどの人に対しても誠実ではいられなかったんじゃないかと思う。だから家を捨てて、慕ってくれた女の子たちを捨てて、果ては自分のアイデンティティーをタダでも確立してくれている社会すら捨てて逃げ出すんだろうな。本当に家出の理由が女の子二人をどうにもしがたくなって逃げてきたなんてあきれてものが言えなかった。ただ、面白いのは、最初のうちこそその女の子たちの名前を伏せているんだけど、最後のほうになるとそんなことはなかったかのように唐突に名前が出てきて面食らったこと。「艶子さん」と「澄江さん」。でも「艶子」って、漱石のほかの作品でも見たような気がしたから、作った名前なのかもしれない。でもだったら、なぜ最初から名前を出さないか。もしくは、なぜ作った名前をわざわざ後で当然のようになんの注釈も挟まずに出してきたのか分らない。
 この主人公は19歳の甘ったれで世間知らずなお坊ちゃんらしく、無駄に強がりで頭が悪く、ひがむことばかり一人前で、不平や不満でいっぱいでも口に出して正当化するような勇気はない。読み進めるうちに、この子はこのこのうちに生まれつくにはあまりにも性質が合わな過ぎると思った。もともとああいう世界で生きているようには出来ていなかったんじゃないかな。

 それでも、ある種人攫いのような手口で鉱山へ連れて来られて、下品で粗野な連中に扶養に辱められながら坑道の地下深くまで文字通り落ちていく過程は痛ましく、一体なんでこんなことをと思う。鉱山は絵に描いたような掃き溜めだ。作業する場所がと言うだけでなく、それを動かす体系にかかわっている全て、あの主人公をこの世界に引き込んだポン引きや、彼と顔なじみだったあの茶屋までが私には醜くく見えた。悪と言ってもいいかもしれない。それが日本の経済活力のなんであれ、そこには誇れるような人間性なんてありゃしない。搾取。労働力としてだけじゃなく、人としての自尊心や命までもが当然のように吸い取られてしまう様は、これが同じ国の何十年か前の話なのかと思うと、驚かざる終えない。人が人らしくなったのって、つい最近のことなんだと、改めて思い知らされて驚く。
 ただね、この「実際そのときは十九にちがいなかったのである」という「自分」の行動自体は本当に幼くて、年相応に思えるんだけど、その行動を斜に見るような考察には諦観があってどこまで本当に当時の思いなのかは分りづらいし疑わしい。実際「自分」も"今になって思えば…"的なことを言ってるし。どれくらい後になってこれを書きに漱石のところへ来たんだろう。

 この救いのない殺伐とした風景の中で奈落へ向かってまっしぐらとしか思えない話のラストには、意外な展開が待っていてちょっと私も驚いた。『あっそう』って感じで。けど、こんなひねくれた弱虫でも、19歳の若い魂が潰されることもなく、かと言って自分の意思でというわけではなかったけれど、それでも別の道を見つけられたということはなんとなく読んでる私にとっては救いだった。そして、経った5ヶ月で辞めたというのも彼らしいと思う。個人的には、たった5ヶ月という短期間で辞めたといういきさつもさることながら、見ず知らずの「自分」に自ら帰路のお金をくれてやってでも坑夫になるのを思いとどまらせようとした「安さん」の物語が気になった。「自分」はそれを聞いたはずだから。「曲がったことが嫌いだから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが」という安さんのドラマが私は気になった。「中学以上の教育を受けたこともある」ってことは多分当時の社会じゃ知識人の方なんじゃないのかな。そんな人がどんな目にあったら、「社会にはまだ此処より苦しい所がある」なんていうと思う?この人は鉱山がどんなところか知り尽くしているのにだよ?正直って、こんな所で、こんな甘ったれのどうしようもないのが、安さんみたいな人に出会うなんて出来すぎてると思ったよ。実際、「夏の土用に雪が降ったよりも、坑の中で安さんに説教されたほうが余程の奇跡の様に思われた」と書いている。まあ、安さんは作品中の良心として作り出されたという線も否めなくはないけどね。
 安さんが実存しようとしなかろうと、「自分」は坑の底で地獄と直に相対するようなこともなく東京へ帰ってきたわけだけど、漱石のところへやって来たのは別に自分の人生のドラマチックな部分を文学として残しておきたいとかそう言うセンチメンタルな理由でも、芸術に対する高尚な欲求でもなく、ただ単に手っ取り早く身銭が欲しかったからだった。後書きに記されていた内容によると「信州に行きたい」とか抜かしたそうである。つまりこいつは、坑に行って地獄を垣間見て、そんな中で鶴のような安さんに身体を張って守ってもらった経験があっても、性根は治らなかったということになる。

 物語は唐突に終わる。私の知りたかったことに関して、というか、全体的ももう少しドラマを膨らませるサブストーリーがあってよかったんじゃないかと思うんだけど、それは「自分」が語らなかったのか、漱石が物語りに仕立てられなかったのか、仕立てなかったのか、分らない。漱石は坑の中を緻密に描写することに凝っていて物語はそこにばかり厚みがあるもんだから、坑の中に入ってしまうとちょっとうんざりする。「坑」を書くってことに気をとられすぎてて、もう少し「色沙汰で家出して坑やってきた19歳の青年の物語」っていう主体を欠いてた気がする。つまり思ったほど中身にドラマはなかったってこと。それがつまらなかったかな。
 確かに漱石は美文だ。美しい表現もいくつもある。文章が緻密になってもなお美しいバランスとか響きを持っていてくどくならない。その才能は物書きとしてすばらしいと思うし、これと同じことを出来る人を私は他に知らない。けど、惜しむらくは漱石には物語を紡ぐという作業が不得手なように思う。今風に言うならプロット作りが下手って感じ。核となるアイディアに気を取られて、物語全体という視点から作品を形作れていないような気がする。だからラストとか、細部が疎かになるんじゃないかな。だから、「夢十夜」ではあまりそれが目立たなかったんで私は漱石の文章に惚れてしまったんじゃないかなと思った。

 しかし、こんなに美しい文章が書ける人なら、努力のし甲斐があるだろうなぁ。


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