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「スピード・レーサー」 [watching]

 これ、子供映画と思ってて、最初は全然見る気なかったんだけど、映画館で予告を見たら(TVを見ないのでTVでCMやってたのか分らないけど)画だけ見ても大分作りこんでありそうな匂いがしたので、観てもいいかなって思った。

 「マッハGoGoGo 」をちゃんと見たことはない。もともとその世代の生まれじゃないし、子供頃に再放送があったかもしれないけど、私が子供のころは他に見るものがたくさんあったからわざわざ古いアニメを見たって記憶がないし、カートゥーンネットワーク観るようになってもこれはまずチャンネル変えたな。時代が古すぎて今の私には感情移入できるとこがないという先入観から。
 そんなわけで、私は原作をよく知らなかったけど、PV観る感覚で映像を楽しもうというつもりで臨んだ。

 原作がおそらく勧善懲悪のわかりやすい子供向けのヒーローものだということは想像がつくんだけど、ウォシャウスキー兄弟の思い入れのフィルターでこされて出てきたものは、アニメが伝えたかった精神を子供だましでなく、驚くほど誠意と愛情のこもった大人向けの作品に昇華されていた。兄弟の原作に対する並々ならぬ愛情や、それゆえの作品作りへのこだわりが作品や脚本、プロットとして表れている。これだけ愛されてさぞ原作者も誇らしいことだろうと思う。自分の作品で育った子供が大人になって新しいクリエーターとなったんだから。しかも、それだけじゃない。自分の作品をきらびやかな映像と精一杯誠意の込められた脚本で改めて表現されたんだから、こんなにうれしいことはない。
 この作品はもっと注目を浴びてしかるべきだったと思う。思うけど、まあ、「マッハGoGoGo 」だしな。アニメにこだわる気持の理解できない人たちがやっぱりたくさんいるってことなんだと思う。この私自身、最初は子供向け映画と勝手に決め付けて観ないつもりでいたわけだし。

 ウォシャウスキー兄弟の映画は長い。そして必ず途中で最初の勢いが薄れて、失速して、結局作品が間延びしてしまう。「マトリックス」は3部作にこそなってるけど、作品の回数を追うごとにドラマとしての疾走感は薄れていき、代わりに不吉な終末観にだんだんと覆われていく。3作目ではその終末観はもはや逃れられない宿命として息苦しいまでだ。よくあの映画があんなに受けたよなぁ。押井守の影響か妙に哲学染みた演出に凝るようになっちゃって。けど、テクノロジーほど、その融通性のなさゆえに人間の思考なんかよりよっぽど哲学に近いのかもしれない。哲学の純粋性において近い場所にいるのはむしろ彼らの方なのかもしれない。
 話が逸れたけど、「Vフォー・ヴェンデッタ」なんかは、エヴィーがヴェンデッタの家にとらわれたあたりから別の世界に入って行ってしまって、その割には浅い表現しかしままエンディングに突入していくのでラストでは別に花火を見上げているためではなく、『あれーー、これで終わりなのーーー?』という途方感に覆われ、観終わった時にはため息が出てしまったよ。

 長くなったが、つまり、この兄弟は何かを自分流に表現しようとするといいたいことがありすぎて、2時間枠に収められない傾向にあるということだな。そんなわけで、もちろん「マッハ」も例がに漏れなく2時間超の大作なわけだけど、「マトリックス」のような重苦しい終末観や、「ヴェンデッタ」のような表現の浅さみたいのを感じることはなかった。むしろ今回は尺を長くするリスクを負ってでも丁寧にプロットを表現したことで、主人公の徒労感や、人の欲の浅ましさや、欺瞞てものを伝えれたんじゃないかと思う。それを乗り越えてのグランプリであるからこそ、あのスタートラインに立った時の言葉が生きてくるんだと思う。
 「ここに立てただけで高栄だよ」。
 そこの言葉を受けスピードが黙るコンマ数秒の間に、これれまでこの家族が乗り越えてきたものがギュッと凝縮されているのがわかった。スピードはスパーキーの真摯な感謝に答えて言う、「優勝のミルクを一緒に飲もう」。
 そう言って抱き合う姿が好きだった。今ここにいること自体が奇跡という真摯な気持ちと、それでもそこで優勝するんだという希望を信じる姿勢に、なぜかスポーツマンらしさを感じた。

 スピード役の男の子が「ミルク・マネー」に出てきた子に似てるなと思ったけど、別人みたい。「ガール・ネクスト・ドア」はちらっと見たことあって、それを見てそう思ったんだけど、まあ時間軸的にも「ミルク・マネー」に出てたらもっと大きくなってるはずだし。この子は少ないキャリアですでにかなりの認められようだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」で主演をしてるっ知った時は驚いた。あのショーン・ペンの映画にねえ。誰かの口利きがあったみたいだけど、それにしたってあのショーン・ペンを納得させたっていうんだからちょっと驚きだ。
 トリクシーみたいな役は、えてして無名だけど若くておっぱいの大きい女の子にチャンスをあげました的なキャスティングになりがちな、つまり誰だっていいって言うような役なんだけれど、そこにあえて百戦錬磨の女優を持ってきたのは作品が軽く流されてしまうのを避けたかったんだろう。決していい役ではないけれど、さすがのキャリアで画面がしまってよかったと思う。でも、私の好みでいうともっとお肉のついたクリスティーナ・リッチの方がいいんだけど。
 この映画でお父さん、お母さんの役どころは重要だ。ウォシャウスキー兄弟が最もこだわった要素の一つではないだろうか。特にお父さんは大事だ。特に、長男同様、世界の偽善に傷ついて家を出て行こうとするスピードへの接し方には、いったいこの兄弟はこんな家族愛をどこで覚えたんだろうと首をかしげたくなるくらいだ。ここで語られる父親が秘密にしていた自責の念や、息子に対する開け放しの信頼は、ウォシャウスキー兄弟がよく考えた人格の表れだと思う。こういうキャラの細かな造形が作品に深みを与えるってことをこの兄弟はよく分かっていると思う。
 スーザン・サランドンの演技はいつでも安心して見られる。えらいことだと思う。スーザン・サランドンの作品をそれほど観ているわけではないけれど、物足りなさを感じたことは一度もない。きっちり仕事ををする人なんだと思う。私の言葉で言うよりもここでプログラムの記事を引用したい。プログラムのライターはサランドンをこう評している。
 「演じるすべての役に強い知性を放つ女優である」
 ライターは明らかにサランドンのファンだ。こんなふうに確信に満ちた賞賛をプログラムで浴びせることなんて珍しい。ライターの思い入れの滲むこの表現がすごく好きだった。また、サランドンのウォシャウスキー兄弟に対する表現も気に入った。曰く、「はっきりとしたヴィジョンを持っていて、それを手に入れるために激しく戦う人たちなの」。激しく戦う人たち。この表現を彼らも誇らしく思うだろう。
 今回横長のプログラムを手にするに至っては、間違いなくこのレイアウトがはやりなんだと確信したが、色合いや厚生なんか、ちゃんと作品のイメージと合っていて、マッハ号のクラフトもつていたりとかして、全国展開の作品のプログラムの割には凝った作りになっていていいなと思ったんだけど、惜しむらくは、スピードのお兄ちゃんの紹介がなかった。真田博之なんてセリフすらないんだからわざわざキャストのとこに載せることなかったのに。お兄ちゃんかわいそう。

 アニメが原作であることを意識してか、本編を通してずっと紙芝居みたいな世界観だ。ポスターカラーで塗ったみたいな空や、芝の色。原色やネオンカラーで目がちかちかするような色合い。こんな中のCGはいくらでもごまかされてしまいそうだけど、でも細部をきちんと整えてあって、結構あらを探すつもりで見てたけど、きっちり仕事をしていたようだ。「インディ・ジョーンズ3」のスカイウォーカーなんかよりいい仕事してたと思う。
 そのめまいがするほどきらびやかな世界でスピードは疾走すればするほど深く自分自身に沈んでいく。「パトレイバー2」で、荒川が環状線を走りながら言う、「自分自身が動き出すことで外は限りなく静に近づき、そして世界は動きだす」。スピードが極限に身を置きながらのんきに自分自身に問うことは、違う場所で誰にでも訪れる一瞬だ。どうして自分は走るのか。「走らされているのさ」とレーサーXは言う。"what makes you driven"。なにに掻き立てられて今をこうしているのか。それを知ること。その途上に誰しもがいるのかもしれない。その途上にいることを人生というのかも。なぜこうして生きているのか。その"what"が何であるかを答えれられる人は少ないと思う。これまで私は"driven"って響きは、シルベスター・スタローンのセレブなゴミ映画のイメージがあったので嫌いだったんだけど、この映画のおかげで逆に好きになった。「走らされる」。そこには好むと好まざるとにかかわらない、理性では制御不能な、本能的、宿命的な響きがあった。人が無心に走らされる理由は、もっと深淵で本質的な何かだという気がした。だから走る理由を理性でうわべだけ合理的に取り繕っても嘘っぽくしか響かないんだ。

 ウォシャウスキー兄弟がアニメから得て、自分たちとして表現したいと思っていることは普通の人たちには、彼ら風に言うならば、「重すぎて」受け入れられないだろう。造形美と享楽的な笑いの影に、善と悪、真実と欺瞞、それでいて物事には3つの側面がある。そして、宿命と奇跡。現実世界に伝えたいメッセージが非リアルな媒体やそのメタファーによってのみ伝播可能であることの可能性を理解している人がどれだけいるかな。アニメの世間における認知度を思うといつもそう考えてしまう。結局、未だもってアニメや漫画ファンだということはマイノリティーでしかないんだな。と、ウォシャウスキーの仕事を観ていて思う。

 取り敢えず、いい映画を観たとO.S.Tを聞いてお茶を濁す。
 エンドロールで流れるイメージソングは英語と日本語とスペイン語。アニメ需要の高い国の言語をフィーチャーしてるとこが憎かった。

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「ミラクル7号」 [watching]

 なぜかチャウ・シンチーの映画を毎回見させられている。ファンでもないのに。まあ確かに、無理やり連れ出されでもしなければ見ない類の映画ではあるけれど。

 この前の「インディ・ジョーンズ」でも思ったんだけど、タイトルロールがタイトルロールの役目を果たしていないという現象にまたしてもであった。お前存在感薄すぎるよ長江7号。ほんとは長江7号って名前なのに、「ミラクル」とか訳しやがんから一瞬本気で「長江」って「ミラクル」って意味があんのかなとか思っちゃったじゃない。んなわけねえ。
 それにしてもかわいくなかったなぁ。長江7号。むしろ電池が切れてぬいぐるみになってしまった方のがかわいかったくらい。なんで宇宙人にはいつも鼻がないんだろう。長江7号にも鼻がなかった。

 一番驚いたのは、子役の男の子が男の子じゃなかったってこと。プログラムに(買っちゃったんだけど)来日した時の写真があって、それがなんかおかしい。花柄のレースの靴下を履いて、まなざしも顔つきも女の子っぽいし、よく見ればアイシャドウ差してるアイシャドウ差してる。何だこりゃと思って慌ててページを戻って役者紹介の記事を見てみたら、なんと息子役の子は女の子だった。オーディションに一万人集まったそうで。確かにキレた演技でチャウ・シンチー好みの演技を120%で演じきってたと思う。とても女のことは思えないテンションんで演技してて、とてもあれが女の子だなんて疑える隙はなかったよ。しかし、それ以上に目ん玉ひん剥いたのが、なんとチャウ・シンチー、この子を養子にしたという。え…、なぜ…。しかも、だからと言ってほんとに親子しているわけではないらしい。女の子は本当の両親と暮らしている。あ、あやしい…あやしすぎる…。あまりのあやしさに、「きっとチャウ・シンチーは香港人だから、養子に迎えてあげればその子の将来に有利なんじゃないかな」とかなんか無理くり好意的に捕れられそうな理由を捻り出して「そうだそうだ、きっとそうだ」と言って、そうに違いないと思うことにした。

 チャウ・シンチーってもう50手前なのね。結婚してなくて、子供もいないなら養子とか考えるのも分らなくもないけど。見えない。最初あの白髪は作り物かと思っていたけれど、ひょっとして自か。しかし、顔が老けないんで白髪が似合ってなくておかしい。
 プログラム曰く、「貧乏でも清く正しく」というのはチャウ・シンチー自身が両親から教え込まれた教訓らしい。だからこの映画は半分彼の両親に対するオマージュであり、もう半分は彼自身の家族観を表しているんだろうな。息子が「お父さんが帰ってくるからもう寝ます」って泣きじゃくる場面は心が痛かった。

 しかしチャウ・シンチーも、もう3本も映画を撮ったから自分の映画自身をパロれるようになった。それも、さも自慢げに。私はあの渦巻き飴は必ず出てくるだろうと思っていた。チャウ・シンチーは太ってる人がどうやら好きみたいで、今回は惜しげもなく階級別に3人も用意してきた。
 ただいつも気になるのは、いつも最終的には心温まる泣き落し的な作品にしているくせに、眉をひそめるような手加減を知らない暴力的な描写があること。あれ必要かな。痛々しいから嫌なんだけど。

 はぁ、また2年後くらいになんか作るのかな。
 まあ何はともあれ観終われてよかったよ。目標一個消化しましたって感じ。観なかったら恨まれそうだったもんなぁ。

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