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「蜘蛛の糸・杜子春」 [reading]

*** プロローグ ***

 「蜘蛛の糸」は小さい頃から好きな話だった。「まんが日本昔ばなし」で「蜘蛛の糸」を見たと言う記憶は定かではないけれど、お母さんの実家の居間と言うか、居間兼仏間と言うかに小さな本棚があって(多分あれは本来本だなとして使われるものではなかったかもしれないが)、そこに「まんが日本昔ばなし」の本になったものがあった。子供の手に収まるような小さな絵本だったと思う。
 「蜘蛛の糸」は決して子供好きのするような話じゃないと個人的には思うんだけど、でも地獄って言う暗い印象に強く惹かれた。あの独特なおどろおどろしさと言うか。とにかく、お母さんの実家に行くとよくその小さな本を夢中で読んでた記憶がある。
 多分、もともと絵本が好きな子供だったんじゃないかな。特に、珍しいどんな国か知りもしない外国の昔ばなしとか、絵本に惹きつけられて今でも、お話や絵を断片的に覚えてる。ネコが郵便局のお手伝いをするのと、なんかアラブの王子が身分を隠して豚飼いかなんかになって、女の子の期を引き様なちょっとエッチな感じのする話。題名を覚えていないのが残念だけど、今でもあるなら読んでみたいな。


【蜘蛛の糸】
 すばらしい。この文章力は子供の話にとどめておくにはあまりにも完成度が高い。こんなにきれいな敬語のつらつら出てくるお話を他に読むときがあるだろうか。敬語って美しいんだなと気づかされたよ。読んでて気分がよくなるくらい。敬語って言うのは言葉の響きの問題でもあるのかもしれない。身分の高い人の耳に雅に響くようにって。

 大人になって読み返しての感想は、やっぱ神様って気まぐれで、無慈悲なんだなってこと。思いつきで助けようなんて思うなよ。ひどい奴だな。人間弄んでいるようにしか見えない。あいつは、日がな一日庭をうろつきまわって、朝に思いつきで蜘蛛の糸を垂らし、昼にはまた違う犍陀多を違う蜘蛛の糸で助けようとするに違いない。
 蜘蛛の糸の教訓は「どんな罪びとにも慈悲の心があって、そのために救われ得る」と言うのが一般的らしいが、個人的にはもしそれが本当なら地獄に落とす前にそのチャンスをやれよと思う。
 そもそも神様って考え自体が公平性を欠いていて嫌だ。それとも、宗教とは世界に公平なものなどないと言うことをこそ知らしめるための存在なのか。宗教やってるやつらはいったいどんな世界を理想としているんだろうな。資本主義か?社会主義か?

 あとがきの中の解説に面白い研究の話がある。「蜘蛛の糸」の原案を見つけたと言うものなんだけど、芥川が依ったであろう同じ原案をロシアでトルストイが翻訳している。その名も「カルマ」って話で、どうやらアメリカ人作家の作品が元ネタのようだね。こういう研究面白そうだなって思う。「抱擁」ってアーロン・エッカートとグウィネス・パルトロウが出てる映画を見てからそう思うようになった。あんなことだけが仕事で生きていけるなんて羨ましい。新しい発見なんてそうそうないだろうに。それどころか多分、重要な情報はきっとそれと気づかれずに日々捨てられていっているに違いない。
 研究っていいな。私も大学院に進めていたら誰か自分の好きな作家を研究したいって思ってたけど。


【犬と笛】
 ダンジョンもの。そんな感じ。

 「髪長彦は横笛を手に入れた」

 みたいな。
 1つの冒険で1つのアイテムを手に入れて、次のステージに移り、そこではその新しいアイテムを使うようなドラマが待っている。RPGの基本でしょ?やったことないけど。
 
 髪長彦は草食系だ。それでいて、両手に花とはいやらしい。オチに、

 「どちらの姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません」

 だって。今までこんだけ詳細に語っておいて、そんなことだけは昔扱いかよ。
 もちろん両方嫁にもらったにきまってる。神が一夫一婦制だなんて、まさかそんな。気に入ったのはみんな嫁にするにきまってる。産めよ増やせよなんだから。

 芥川自身がもやしっ子であったためか、主人公が男気溢れるみたいな精悍なタイプに出会ったことがない。なぜ髪長彦がこんなビジュアル系みたいなほ容姿である必要があったんだろう。その女男みたいな外観がストーリー上重要な役割を担っているという訳でもないのに。
 変なの。


【蜜柑】
 解説によるとこれは別に童話といことではないらしい。でも、芥川の鬱々とした性格がよく分かるよ。そんなに気になるなら声掛けたらいいじゃん、その女の子に。
 「三党車両は向こうですよ」
 とか
 「煙が入るので窓を開けないで貰えますか」
 とか。
 龍之介とは名ばかりで、とんでもない意気地なしだ。だから死んじゃうだよ。自分から何も言うこと、聞くことなしに娘の大度を厚かましいとか、卑しいと蔑んでいる。
 けれど、だからこそ、まだ娘と言うにはあまりにも子供じみた女の子が、窓から蜜柑を放り投げた時のこの男の胸に去来する感動は大きい。

 彼の心の中もこんなふうに、普段は暗く沈んだ中に一瞬の鮮烈な印象を見るようなものだったのかなと、そう思った。


【魔術】
 『これ、芥川の話だったんだ』
 って、読んでて気がついた。
 昔、中学生の頃だったか、高校生の頃だったか、近代文学のミステリーだけを集めたアンソロジー本があって、「不思議な物語」とか言うタイトルだったと思うんだけど、今記憶を頼りに調べてみたら「幻想文学館〈2〉なぞめいた不思議な話」だった。そうそう、所蔵作品がこんなんだった。
 聞いたこともない外国文学ばかりだったけど、もともと外国文学に抵抗がなかったし、結果的に私個人の文学史にとってかなりいい重要な出会いとなった。
 私が最初に読んだ漱石の「夢十夜」はこれに納められていたから。

 そこにこの作品も入っていたんだ。今改めて目録を見ると日本人作家の作品は漱石と芥川しか納められていないんだね。おそらく私がこれを読んだ当時の年齢よりも下を狙って編集されたと思わしきアンソロジーではあるが、日本人作家以外の作品はかなり難易度が高いものであったという記憶。
 かなり気に入っていた本だから捨てたはずはないけれど、どこかにあるにしてもホイと手の届く所にはないだろうな。

 最初の一行を読んで、降りしきる雨音と共に記憶が襲いかかってきた。提灯を付けていても暗くて何も見えない洋館の前、雨音で他の音は何も耳に聞こえないくらいの大雨。そう言った映像が、水の匂いもするかと思うくらい鮮烈に思い出された。
 これほどまで異様に生々しく雰囲気を感じさせる話はない。暗い室内、ランプは灯っているけれど闇が濃くて、燃えている炎意外に明るくなるものがない。男が二人小さなテーブルをはさんで向かい合って、葉巻の紫煙が湿気で重くなった空気の間をくゆっている。私にも雨の音が聞こえそうになってくる。

 話はね、オーソドックスではあるけれど、無駄がなくてむしろ小気味いい。そこに芥川なりのスパイスが効いていて、ありきたりのプロットを絞めている。カードのキングがニヤリと笑うところなんか悪趣味で作品の雰囲気に合っていると思う。
 「魔術」はそこに描かれている世界を読者の目に鮮やかに映して見せる。キングも小説とは、そこにないものを見せることが出来ると言っている。そういう力が最大限に引き出されている感じがする。
 確かにこの作品には「魔術」があるかも知れない。


【杜子春】
 これは有名なんで、読んでみたいと思っていたけれど、思ったほどのものでもなかったな。 
 特に杜子春が再三再四財産を破産する姿はあきれる。なんでもっと大事にして生きれないんだ。それをこそ教えてやれよ。何度身の程知らずな財産を与えても、一昼夜にして散在する杜子春に、湯水のようにチャンスの与えられることが私には信じがたかった。杜子春のどこにそんな価値が?得られた財産を管理もできず、付き合う友達も選べず、一文無しになるはまったく杜子春の甲斐性のなさが招いたものなのに。こいつにんどんな徳があったらこんな度重なる助けが得られるんだと私は杜子春を妬んだ。
 と言うことで、むしろこの話は私にとっては不愉快だった。
 だって、最後には希望通り人里離れて静かに暮らしちゃうんだよ?それも、家具調度一揃いの一軒家付きで。
 世の中ってやっぱ不公平なんだなぁ。


【アグニの神】
 ヒーローもの。拳銃持ってるし。ドア蹴破って入ってくし。相手はお嬢様だし。
 信じられないけど、書生が自分の主人の娘を探すのに、現地当局が信じられないからと言って、拳銃一つ持って知らない街をさまようと言う、その姿をもっと一生懸命掻いたら立派なハードボイルド小説になったと思うんだけど。しかし、拳銃は最後まで火を吹かなかった。それもまたもやしっ子の芥川らしいけど。
 個人的には、アメリカ人が日米間の戦争の開戦を占いに来る辺りが、逆に現実味を帯びていて好ましかったな。


【トロッコ】
 これは、私が男の子でないせいか退屈な話であったけれども、良平がおびえて急き立てられるように走りぬく様子はどこか自分にも身に覚えのあるようなノスタルジーと焦燥感が感じられた。そして良平が走り始めると同時に周りの物が急に色彩を帯びてくる。良平が疾風の如く駆け抜ける景色、町並み、驚きの表情で良平を振り返る顔、顔。そんなもの達に急に色が付き始める。
 けれどその鮮烈な印象もひとしきり治まると、物語は急速に熱を失い、なんの脈略もなく良平の18年後に飛んでゆく。芥川はこんなにも幼年期の思い出を色鮮やかに引き出すことに成功しているのに、なぜそこへ苦々しいサラリーマンの生活なんかを振り返えさせたかったのだろう。不思議。

 でも、子どもにとっての知らない人って往々にしてこうだよなと、私自身も身に覚えのあることとして思いだした。親切にしてくれているのかと思ってなついていると、実はあしらわれていただけだったりしてさ。それで子供の心がどれだけ傷つくことか。見ず知らずの人にそんなふうに扱われることに。そうして他人に対して用心深くなっていくのかも。
 でも、不思議と自分の親をそんなのと同列にみたりしたことはなかったな。やっぱり別人と思っているんだろうか。良平も大人にあんな目にあわされて最初に駆け込んだのはお母さんの胸の中だった。


【仙人】
 これは突拍子もない話で好きだった。
 私も松の枝から権助が「どうも有難うございます」と言って空へ昇って行く姿を見たかった。
 ただ、そんな昔から転職エージェントってあったんだと言うことを知って驚いた。
 ふうーん、いつの世も人間の考えることって一緒なのね。人って賢くなってんのかなと思わず首を傾げたくなる。


【猿蟹合戦】
 これはパロディなんだけど、子供が素直に喜ぶ鳥獣の勧善懲悪ものを、なにもこんな厭な話に仕立てなくてもいいのにと気持ちがやつれた。
 ほんと根暗だな、こいつ。
 ただ、連合軍側に「卵」って言うのが出てきて驚いた。私は猿蟹合戦に生モノが出てくるという記憶はなかったから。でも、解説を読んだら、連合軍側には「栗」がいたとする説と「卵」がいたとする説があるそうな。しかしいずれも囲炉裏に落ちて爆発したのが猿に飛び掛かるということらしいんだけど、卵っが囲炉裏に落ちて爆発するかなぁと思ってちょっと怪しく感じた。電子レンジならまだしも。


【白】
 白が黒くなっただけなのに自分の飼い犬と気付けないなんて、その飼い主に白の努力ほどの価値があっただろうか。私ならジョディが黒くなったってジョディだって気が付くけどな。
 このフィクションはなんだか滑稽だった。コメディというより滑稽。白の活躍を新聞が報じるあたりとか。
 それよりも「犬殺し」なんていう職業が大っぴらにあったことが憎まれる。それくらい当時は野良犬も自由に暮らしてたって言うことなのかもしれないけど。でも、そんなに町に犬が溢れている様子が想像つかないよ。ましてやそれを人が首に縄ふんじばって連れてく様子なんて。
 関係ないんだけどさ、この前テレビで桃太郎侍が三味線には猫じゃなくて犬の皮を使うんだと言って私を驚かせた。犬皮(けんぴ)って言ってそっちのが高級なんだって。猫の皮のは練習用なんだって。
 そしたらさあ、そうやって連れてかれちゃった犬猫はみな同じ運命だったのかなぁとか考えちゃった。
 犬の皮で楽器って……。今でもそうなのかしら。

*** エピローグ ***

 「まんが日本昔ばなし」はなんかテープでも持っていたように思う。「髪長姫」とか。そんでそのテープを聞きながら絵本に見入っていた記憶がある。
 「まんが日本昔ばなし」は大分大きくなっても録画して家族みんなで観てた。連載の最後の方はさすがにネタ切れ、内容もマンネリ化してきちゃってて、観る方もダレて来ちゃってたけど、それでも夢中になってみてた頃は、画像も、ストーリーテリングも子供の見る番組にしては質が高かったと思ってる。今質よりもお手軽さが好まれるような世の中じゃ、望むべくもないクオリティだったと思ってる。それは多分あの頃のアニメ全般に言えることなんだろうなと最近昔のアニメを見返してて思うよ。どうしてこんなにチャライキャラクターの薄っぺらいドラマのアニメばっかりになってしまったんだろうな。あれじゃ子供の心も育たんわね。
 それほどに高品質な子供向け番組がDVDはおろか、再放送の目途も立たないなんて悲しい話だわな。大人が目の前の利権にうつつを抜かしている間に子供は育ってしまうよ。再放送やDVD出版が決まってからまた小さくなるってことはできないんだよ?世の中には取り返せないものがあるってことに気が付かんかな。
 ただもうそんな風にして、今ではもう希釈な娯楽にどっぷり浸かってしまっている子供たちが、こんな骨のある文章を読んで何か感じたり考えたりできるのかな。
 いろんなことが悪い方にしか進んでいないような気がするのは私だけかな。



蜘蛛の糸・杜子春 (新潮文庫)


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「伊豆の踊子」 [reading]

【伊豆の踊子】
 なるほど。青春小説とはこういうものかと感心した。
 27の時に書いたにしては、解説を書いている人もそう言っているように、あまりに瑞々しい。あんなに傷つきやすくきれいな感情や情景をいったいどうやって27まで囲ってこれたんだろう。
 二十歳にもなって世間知らずにもほどがるというほど健全な男子、いや、いっそ男の子と称した方が相応しいくらいまだ精神的に幼い主人公の心の動きを鮮やかに描いていると思う。その心が捉えて描く世界は清廉で鮮やかだ。康成自身が好きであるように、「清潔」、そんな感想が相応しい話だと思う。

 「伊豆の踊子」の舞台を私も個人的に知っていて、好きな場所であることが作品の評価を高めていることは否めないけれど、彼の描写が私の想像や思い入れを超えて優れているからこそでもある。雨が霧となって麓から迫ってくる様子は、静かな迫力に満ちていてまさに息をのむ思いだった。ほんの束の間目にとまっただけの情景を、その時の鮮烈な印象を、または静かに胸に迫る抒情を、余すとこなく美しい響きの文章で綴っている。川端の自然描写は「高級品」という感じがする。嫌みのない清楚な高級感だ。それは川端自身のつつましさの中にある美意識そのものなんだろうと思う。

 私は明治や昭和中頃までの作品、近代文学って言うのかな、を最近よく読むけど、一世紀も前ってわけでもないのに既に社会常識が馴染めなかったりする。
 高度経済成長期の国民総中産階級とかいう現象を経て、バブルを創造し、崩壊させてなお、資本主義を追求することで見せかけの経済回復をなしえたかに見えかけた途端、その見せかけを繕っていたからくりが瓦解して、100年に一度とかいうおとぎ話みたいな枕詞のもと未曾有の景気後退を招き、見せかけの経済回復の本質であった二極化という不可逆的な社会制度が既成事実として存在する今、川端の作品を読んで思う。

 人間て、言うほど平等であったことなんてないんじゃないの?

 私は団塊の世代の子供で、「いじめ」と言う言葉以外で差別と言うことを実感したことは殆どない。自分が女性であることや、雇用形態それ自体が差別の対象であるということに気が付いたのは、もっと後になって、私が社会人になって仕事で活躍できるようになってからだ。
 それまでに私が聞いて知っていた差別って言うのは、子供の「いじめ」を除いたら、「同和」だった。部落ということを考えるといつも後ろ暗い気持ちがする。同じ人間により卑しいものがいるという考えだから。極論を言えばさ、いると思うのよ。「卑しい人間」と言うのが。ニュースを見てたらそんな人間のクズの話で持ちきりじゃん。けど、同和と言う差別は質が違うと思う。明らかに人間性を否定する考えだ。中世ヨーロッパがそこらじゅうでやってたユダヤ人の隔離政策と一緒だ。隔離される側に人権なんてない。果たしてそうなのか。同じ人間じゃないのか。「ヴェニスの商人」でもアル・パチーノがそう言って吠える。本当の悪はシャイロックなのか。
 話が逸れたけど、つまりそんな差別に私が感じる後ろ暗さが、この見た目は太陽のようの元にキラキラとのびのびと四肢を伸ばす若木のような「伊豆の踊り子」の物語にそこはかとなく付きまとう。村の入り口の立札を読んでその気持ちは固くなった。踊り子って、旅芸人てどうしてそんなに卑しい目で見られなくちゃいけなかったんだろう。乞食と同列に扱われているんだけど。托鉢僧なら功徳を説いてくれるからいいけれど、唄やお囃子はありがたみがないってそういうことなのかな。違うよね。きっと、盗みとか、売春なんかをするグループもいたんだろうな。
 まあだから長い話を短くすると、旅芸人と言うのがそんなふうに疎まれる存在であったということがショックだったのよ。考えてみれば、昔は流れ者ってこと自体が人に警戒される要素だったんだよね。「村の入口」っていう表現にもちょっと動揺を隠せない。だって、今、町とか地区の境目が分かる?「ここからどこどこ町です」みたいな。そんな区画を示す看板が出てるのは今時商店街くらいだよね。
 昔お父さんがこの辺の読み方が独特な地域のことを「読めない人をよそ者と区別したんだよ」と言うのを聞いて少なからずショックを覚えた。なぜよそ者と区別する必要が???してどうするの??
 「踊子」に出てくる「村の入口」にこの時の話を思い出した。「村の入口」自体が差別の象徴のように思えた。ただその反面、当時彼らがそうしてまで守ろうとしていたものが分かるような気もするんだ。彼らは自分たちの生活を守りたかっただけなんだろうと思う。つまり、誰かよその人を受け入れる余裕がないんだよ。自分の生活を守るんで精一杯で。その生活を脅かす恐れのあるものは極力排除したかったに違いない。彼らの自衛の力は弱かっただろうから。リスクは負えなかったんだよ。それでもさ、やっぱりそんな汲々とした姿はなんとなく悲しく映る。誰も誰かのこと思いやれないなんて。
 そう思うとさ、今も昔も対して変わらないんじゃないかって思うんだよね。それが動物の本能としても正しいと納得できたりもする。けれど、きっとだからこそ、利害を超えた思いやりが「人」として尊ばれるのだと思う。 

 大分脱線したけれど、瑞々しさの裏にそんな暗いものも渦巻いているということだよ。
 あと、基本的に古い時代の話は当然風習が違うので、他にも色々驚かされることがある。旅館のお風呂が混浴だったりとかね。『ありえねー……』と思ってびっくりした。そう言えば、男湯に入ってきた10歳の女の子を盗撮して捕まった人がいたけど、それは女の子の父親に8割がた罪があると私は思う。お父さんと一緒にお風呂に入るのはいいと思うけど、公衆浴場はまずいんじゃないの。お母さんと一緒に入れないやむにやまれぬ事情があったのかもしれないけれど、そうでないならお父さん保護者として認識が甘いよ。
 ついでに言うと、冷静になって考えてみれば、「伊豆の踊り子」はハタチの学生が14歳の子に惚れると言う、今だったらそれもどうかと思う色恋話ではある。
 ただ、学生の目当ては踊り子ばかりでもなかったんだろうとは思う。きっかけは彼女であったかも知れないけれど。孤児根性に歪んだ彼の精神が、親子で連れ立って歩く旅芸人の陽気な姿に惹かれたとしても何の不思議もない。人一倍さみしがり屋で、それを言うこともできない(もしかするとそれが寂しさであることにさえ彼は気づいていなかったかもしれないけれど)不器用な川端の若い強がりや、身の程知らずな見栄っ張りも物語の中には随所に伺える。しかし、後年これを書いている彼自身はそれが世間知らずゆえの不作法であることをよく分かっているようで、そうした様子を素直に描ききれている。そこが小気味よかった。
 それに、この踊り子は、ハタチの寂しい学生が一目惚れしてしまうほどの魅力を十分持っているように描かれていた。綺麗な女の子が、何の得もないのに、自分になついて言葉少なげにただひたうなずいたり笑ったりする様子は、男なら誰だって心を動かされるはずだ。「仕草がかわいい」という思う男の気持ちを、学生に対する踊り子の様子を見てたら理解できたような気がする。
 14て言うのは特別な年頃だ。萩尾望都もそう言っている。本人が望むと望まざるとにかかわらない、ドラスティックな(なんか春樹みたいな表現だな)身体的な変化が起きる時期だからだろうと思う。そう言う否応ない人の心身の成長としての変化は、この後にも先にもないだろうから。踊り子は、そんな時期に、自分ではそうとは知らないうちに手に入れ、また理不尽に奪い去られる透明性とその美しさの権化のようでもある。「ダンス・ダンス・ダンス」 のハルキほど露骨に詳細に書いてはいないけれど、川端の言いたかったことも大体そこなんではないかと思った。おそらく「孤児根性で歪んでいる」心の学生には、かつて持ち得なかったもので、それを自分でも知らぬ間におおらかに謳歌する踊り子はさぞ彼の眼にまぶしく映ったことだろうと思う。

 踊り子たちに別れて、相模湾を望む船上で涙を流れるに任せる様子は川端の個人的な悲しみや寂しさをよく表していると思う。彼の孤独は一生を通じての彼のオブセッションであり、それこそが彼に文学を書かせたんじゃないかと思う。そしてその才能は、泣いてる理由を気遣われて

 「今人に別れて来たんです」

と、なんのてらいもなく言い放つ姿に、未来の文学士の初々しくも頼もしい勇士を見たような気がした。


【温泉宿】
 「温泉宿」はまたぎょっとするほど卑しい話だった。私こういうのダメなんだよ。読んでる間中気分が悪くてしょうがなかった。「ああ、野麦峠」みたいな、古いモラルの悲劇を見せつけられる後ろ暗い印象のする話だった。女の子たちが虐げられているって言うのも、イメージがダブる要素なんだろうけど、もともと私は性を弄ぶような話が苦手だ。その内容がレイプみたいに理不尽に奪われるものであれ、援交みたいに自ら投げだすものであれ、または純粋にとんでもなく歪んだ性癖であれ、生理的にそう言うドラマが受け付けられない。分かりやすく言うと、個人的にそんな世界はあり得ないと思っているからだ。追い詰められると結局女って性を弄ばれることでしか生きていけないんだなという様子に吐き気を覚えつつも、そこはかとない悲しさを感じた。

 それで、こういう話を読む度に思うんだけど、なんだってまたこんな話が書きたくなるんだろう。どうせ書くなら楽しい話の方が、素敵な話のほうがいいじゃんか、と思うのは私だけか。それでまた、こんな話を川端みたいな研ぎ澄まされた美しさを表現できる人が描いているというのが意外だった。
 でもね、振り返って考えてみると、川端君はこういうちょっと道から逸れた影のある女性を好む傾向にあるみたいだから(「雪国」の駒子しかり、踊子が卑しい身分であるのは作中でも記してあるし、この後に出てくる「禽獣」の千花子も舞踊家とか言いながらその素姓はかなり怪しい)、そんな彼が彼女らの生活やその背景に興味を持ったって何の不思議もない。
 しかしそれがあまりにもマニアックで、そんなとこまでつまびらかにしなきゃいけないかねと読んでて苦しくなるほどの女中の悲しい習性を描いてる。意中の男性の残した料理を持って帰って食べるとか、朝食の残りの生卵を後片付けの最中に、これまた残り物の鉄瓶で茹でるとか、仲間同士での盗みとか、貧しさに追い詰められてという以前に、彼らのそもそもの考え方が、とにかくもうあからさまに浅はかで卑しい。その姿に当てられちゃうのよ。
 自分の精神が彼女らに比べたら高尚なもんだとかそういうことを言いたいわけではないんだけど、やっぱり教育って大切なんじゃないかって思うのよ。彼女たちを見てると。それとも、そう言う生き方をしている女の子たちは、形こそ違え、今でもいっぱいいるわけだから、例えそう言う人たちに教育を付けたところで、結局は永遠に分かり合えない仲なのかな。価値観にしているものが違うような気もするし。

 「温泉宿」は川端君の作品には珍しくキャラクター小説になっている。女中たちの性格をちゃんと描き分けて、核となるキャラにはその背景も付けている。お滝は男勝りのかなり強烈なキャラだ。「中学生か」と、自分の中学生だった頃を思い出しながら突っ込みたくなるくらい極端なキャラだ。単純にもう、血の気が多いというか。そのお滝が可愛がってる頭の弱いお雪。上昇志向のつもりで、どんどん身を堕としていくお時。男と寝ることが生きがいのお咲。
 しかし、ここまでキャラクターを描き分けられるのなら、その実力はこんなおぞましい話(に私には聞こえる)ではなくて、もっと愉快な話にしてほしかった。
 けど、この時期笑える小説ってきっと書かれてないんだろうな。昭和初期頃って今と変わらぬ金融不況だったらしいじゃん。そこから軍国主義に傾倒して、没頭して、怒涛の太平洋戦争に突入すんのよね。そんな恐怖政治下で冗談なんてよう言わんわな。


【抒情歌】
 個人的には、これが一番川端の綺麗で悲しい「もの」が最高潮に研ぎ澄まされた、結晶みたいな作品だと思う。それだけ私に思うところのある話だったからというのももちろんある。所詮、映画も小説もどこまでシンパシーを感じられるかというあくまで個人的な酌量によって善し悪しが決まるもんだと思ってる。

 川端君は超常現象に並々ならぬ興味をお持ちのようだね。死にも興味があるようで、小さい時にいろいろと身近な人の死に目に遭ってきたせいかなと思った。

 お父さんは、私が小さい頃、
「死んだら何もないんだ。あの世で死んだ奴がうろうろしてたらあの世が窮屈でしょうがないだろ」
と非の打ちどころのないことを言っていた。
 私は……、どうかな。死んだ後のことなんて分かんないと言うのが感想。みんなが勝手に想像するみたいに、魂だけになって自由に飛びまわれるならしてみたいと思うことはあるけれど、それに意味があるのかどうか。しばらくやってみてダメだったら諦めるだろうな。
 転生するならそれでもいいし、あの世のきっと今では拷問に近いであろう人口増加の中に加わんなきゃいけないなら、それを嫌と思っても仕方がない。ただ、知らない人の中で一人でやって行くのは心細いだろうなと言う気がするから、きっと家族を探すと思う。あと、みんなで静かに落ち着ける場所を。そう考えたら、死んでまで心休まらないなんてやだなと思った。
 死んだんなら、もう何も気にせず、心配せず、のびのびとしたいよ。

 滝枝は悲しくて美しい。その美しさに、その悲しさがいっそう引き立つ。婚約者を友達に奪われるなんて、聞いてる方だって聞くに堪えない醜聞を、自分自身だって耐えられないような恥ずかしい話を、そんな居た堪れないような気の毒な印象も払拭するほどに彼女の精神の健気さは美しい。

 悲しいのは、友達に寝捕られたからじゃない、婚約者に裏切られたからじゃない、自分が運命と信じてこの身を賭けたものが勘違いであったと思い知らされたからだ。核心はそこで、恋人の裏切りも、その相手が親友であることも付随的なものでしかない。きっと滝枝はそれを知ったとき呆けてしまっただろうなと思った。私の今までってなんだったんだろうと思って。この時代の人間にしてはよく死ななかったと思うよ。

 私は「抒情歌」の話を「ヘドヴィク」と重ね合わせた。テーマが同じだ。ヘドヴィクも最初は恋人の裏切りを、自分の運命の勘違いを受け入れられなくて苦しむけれど、最後はその運命そのものと対峙して受け入れる。

 気持ちは分かる。私もそうだったから。滝枝たちほどでないにしろ、偶然の廻り合わせみたいのを運命と思って勝手に喜んで舞い上がって。好き合ってる者同士のテレパシーだとか思うこともあった。
 けど、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
 偶然なんかない。テレパシーもない。偶然と思えることもみんな本当は潜在的に計算されたことなんだよ。価額でむりくり理由をつけようと思えばいくらでも説明のつく行動理論なんだよ。
 と、最近は思うようになった。そう思う方が自然なら、それを受け入れてもいいって。
 運命は勘違いだって。

 で、気になったことに、川端や芥川を中高生で読破したって自慢げに話す人を見かけるけれど、こういう話は子供には分からないあんじゃないかなぁって思った。
 三島をしてうなるほどの作品なのだから。
 小説ってさ、ある年齢、ある経験を経ないと理解できないものがあるんじゃないかなと思う。


【禽獣】
 川端康成の動物好きは「理想の国語教科書」でちょっと触れて知っていた。確か、二葉亭四迷の随筆かなんかの解説にあったんじゃなかったか。太宰はあの陰湿な性格から動物が大っきらいで、川端はその孤児根性から物言わぬ生き物に大変な関心があったようだ。
 しかしこいつはマニアだ。それも私からすればかなり倒錯してる質の悪い奴。まず、飼ってる数が尋常じゃない。食卓に鳥かごを乗せたりするし、人間の男とは付き合えないとか、だから犬も雌ばかり飼っているとか、いや、雌を好んで飼うのはそればかりじゃない、出産や子育てが楽しいのだと言っておきながら、仔犬を間引くと言ってはばからない。
 もしも主人公に川端の人生観が映っているのだとしたらかなりぞっとさせられる。あの冷淡さは異状だ。生きてる間は見てる方も眉をひそめるほどの可愛がりようなのに、死んでしまうとまるで関心がない。文字どおりゴミ扱いだ。押入れに放り投げとくなんて。仔犬が死んでも1mmだって心は動かない。仔犬を誤って殺してしまう母犬をして、「人間の愚かな母と同じである」と言わしめる。繁殖家がゴミ箱に捨てたヒナ鳥を、そうとは知らない最初は拾って飼おうかとも思うが、ブリーダーが間引いたものだと考え付くと、一転して「そんな屑鳥」と呼ばわって捨て置く。
 こいつが菊戴にしたことなんてもう人間とは思えないよ?

 ここまで読んできて、この美文とは裏腹な卑しさは川端自身に潜む物かと突然気づく。言われてみれば「雪国」の時からあったけれど、川端の書く男は大抵自分の方が優位に立てる女性と付き合っていて、それでも彼女たちには音のに手の出せない才能や境遇を持っている。それを男は明らかに妬んでいるのに、自身はそんな感情が自分にあることすら気付かなという傾向があるように思う。

 いやあ、愛情を知らずに育つとこんなに屈折するんだなと思って恐ろしかった。


【解説】
 ちなみに解説を三島君が書いている。二人は仲が良かったらしい。二人の文通の様子が本としてまとまっているらしいので、それも見てみたいと思った。親友の死を止められなかった川端がその後世の中に絶望してしまったとしても何の不思議もない。

 三島君の言っていることは高尚過ぎて、私のような知恵の浅いものには意味することろが分からなかったりもするんだけど、それでも、解説を読んでいると結構三島君とは解釈が大筋のところで合っていそうだったのでそれがうれしかった。「伊豆の踊子」を「真の若書」と言っているし、私が一番気に入った「抒情歌」を「川端康成を論ずる人が再読三読しなければならぬ重要な作品」とも評している。
 なんだか答えが合ってて褒められた生徒のようにすがすがしい気分だ。

 しかし、昭和の文壇て、考えてみると、今では他に望むべくもないような才能を湯水のように抱えていた割には、そんな才能が一滴残らず手のひらからこぼれていくような亡くし方をして。それって相当異常な状態だったんじゃないのかな。
 この才能たちを生んだのも、また自ら滅ばせたのも、時代の負うところがあったんじゃないのかなと、そんなことも考えた。


伊豆の踊子 (新潮文庫)

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